表通りは人通りが多く華やかで比較的規模の大きな店が多いが、裏町(うらちょう)と呼ばれる路地には入り口も目立たず人もほとんど通らず店舗も小規模なものをわずかな数だけ設けるスペースしかない。
江戸時代の
鎖国下でも長崎は対中貿易港として認められ、最盛時には約1万人の
福建省出身者を中心とした中国人が長崎市中に住居した。当時の長崎の人口は7万人であったから、いかに
華僑が多かったかがわかる(参考:
オランダ東インド会社が存在した18世紀まで、
オランダ船が来航していない期間に
出島に住んでいたオランダ人は約15人)。その後、中国人の住居は丘陵地の
唐人屋敷に限定されたが、
1698年の大火で五島町や大黒町にあった中国船の荷蔵が焼失したため、唐人屋敷前面の海を埋め立てて倉庫区域を造成した。この地域が新地と呼ばれた。
幕末の鎖国政策の放棄により、
1859年長崎港は国際開放され、唐人屋敷は廃墟となり、在住中国人は海岸に近い新地に移り住むようになった。これが長崎新地中華街の起源である。