通化は終戦時に中華民国国民政府の統治下におかれた。
満洲国通化省王道院院長を務めた孫耕暁が国民党通化支部書記長に就任し、
満州国軍や
満州国警察が転籍した国民政府軍によって治安が維持されていた。
1945年8月24日に将校20人、兵200人からなる
ソビエト軍が
通化に進駐する。また、ソビエト軍から武装解除された
関東軍の兵器を引き渡された中国共産党軍も進駐してきた。当時の通化には、多くの在留邦人や引き上げのために集まった17000名もの日本人が滞在していた。日本人はソビエト軍による
強姦・
暴行・
略奪事件などに脅かされており、ソビエト軍司令部の命令によって日本人女性たちを
慰安婦として供出するなどして、なんとか耐え忍んでいた。また、中国共産党軍は脱走兵狩りを行い600人が検挙され吉林へと連行された。ソビエト軍が撤退し、通化の支配が中国共産党軍に移ると、楊万字通化省長、菅原達郎次長、河瀬警務局長、超通化市長、林副市長、川内通化県副県長などの通化省行政の幹部は連行され、拷問や人民裁判の判決により全員殺害された。また、中国共産党軍は
清算運動と称して民族を問わず通化市民から金品を掠奪した。
9月22日には、国民政府軍と共産党軍による衝突が起こり、国民政府軍は通化から追い出された。
10月23日、中国共産党軍の大部隊が新たに通化に進駐してきた。11月に入ると中国共産党軍は、
遼東日本人解放連盟通化支部を設立する。中国共産党軍の指令をうけた
日本人民解放連盟は日本人遺留民へ財産を全て供出し再配分するよう命令を行った。日本人遺留民たちが抗議すると、
11月2日、中国共産党軍は17000名を超える遺留民を収容能力5000名以下の旧関東軍司令部へ遺留民1人につき毛布1枚と500円の携行以外認めないとした移動命令を出した。通化は氷点下30度になる極寒の地であった。遺留民団が嘆願を続けると、中国共産党軍は、日本人全員が共産主義者になることを誓約し、全財産を供出して中国共産党と日本人解放連盟に再分配するならば移動を見合わせるとする要求を突き付けた。
11月17日、中国共産党軍が
大村卓一を
満鉄総裁であったことを罪状として逮捕する。また、
中国共産党軍は男女を問わず日本人を強制的に徴兵・徴用した。徴用による強制労働は無給であった。やがて、日本人遺留民たちの反共産党の感情が強まっていった。
まもなく、16歳以上の日本人男性は事件との関係を問わず全員拘束され、連行された。3000人以上に上る拘束者たちは小銃で殴りつけられるなどして8畳ほどの部屋に120人以上ずつ強引に押し込められた。拘束された日本人は、あまりの狭さに身動きが一切とれず、大小便垂れ流しのまま5日間もの間立ったままであった。抑留中は精神に異常をきたし声を出すものなどが続出したが、そのたびに窓から銃撃され、窓際の人間が殺害された。殺害された者はそのまま立ったままでいるか、他の抑留者の足元で踏み台とされた。また、数百人が
凍傷に罹り不具者となった。拘束から5日後に部屋から引き出されると、朝鮮義勇軍の兵士たちにこん棒で殴りつけられ、多くが撲殺された。撲殺をまぬがれたものの多くは手足をぶらぶらとさせていた。その後、中国共産党軍による拷問が行われ、凍った川の上に引き出されて虐殺が行われた。川の上には服をはぎ取られた裸の遺体が転がっていた。