虎ノ門事件の責任を取り
山本権兵衛内閣が総辞職し、後継首相として
枢密院議長
清浦奎吾に大命降下があった。
清浦内閣は、1924年
1月7日に成立するが、外務・陸海軍大臣を除く、全閣僚が
貴族院議員であり、かつそのうちの半数がかつて清浦が代表であった会派・「
研究会」所属という顔ぶれであった。このため、清浦内閣は、「貴族院内閣」または、「特権内閣」の蔑称を受け政党、言論界、そして国民世論から遊離しているとして、清浦内閣打倒による
憲政擁護運動(第二次憲政擁護運動、第二次護憲運動)の高揚を見ることとなる。
1月31日清浦内閣は、議会外における護憲三派の行動などを理由に衆議院を解散する。本来清浦内閣は
5月10日の衆議院の任期満了までの
選挙管理内閣として位置付けられていたにも関わらず、清浦が政権続投への意欲を見せ始めた事の表れであった。この解散は、「懲罰解散」と呼ばれ、国民各層の憤激を買った。なお、この総選挙は大正13年
2月8日公布の
詔書によるが、
関東大震災の被災のため、選挙人名簿作成に時間を要したため投票日がずれ込み、本来の任期満了予定日であった5月10日までの100日間を要したため、事実上の任期満了選挙となった。
選挙結果は、護憲三派が281名を当選させ絶対多数を獲得。清浦内閣与党の立場にあった政友本党は選挙前の議席、149名が33名減の116議席に留まり清浦内閣は退陣する。