こうした活躍が、当時
内務卿であった
山縣有朋の目にとまり、
1884年(明治17年)、全国の警察を統括する内務省
警保局長に、34歳の若さで異例の抜擢を受けた。清浦の警保局長在任期間は7年間の長期に及んだが、その在任期間中の
内務大臣は、5年余りが山縣であった。そして、この間に得た山縣の信頼を背景に、清浦は出世の階段を順調に上ることになる。
1892年(明治25年)、
第2次伊藤内閣のもとで山縣が司法大臣に就任すると、司法次官に任ぜられた。さらに、
第2次松方内閣、
第2次山縣内閣、
第1次桂内閣のもとでは司法大臣などを歴任した。一方で1891年には貴族院議員に任じられ、翌年より貴族院の会派の一つであった
研究会に所属する。実務に明るい清浦はたちまちのうちに代表者とみなされるようになり、以後
枢密顧問官に転じる
[清浦の枢密顧問官就任の背景には清浦が自分に代わる山縣閥の首相候補になることを恐れた桂太郎が、清浦をその勢力基盤である貴族院から追い出すためであったと言われている。(尚友倶楽部「貴族院の会派研究史 明治大正編」(1980年)がこの説を採る)]1906年(明治39年)まで研究会を率いてここを貴族院における親山縣・反政党勢力の牙城にするとともに、
伯爵以下の議員の互選に際しても選挙運動で活躍して研究会を第1会派に育て上げた。