林内閣は当時から、いろいろと評判の悪い内閣だった。それは多分に林の性格から来ている。林は常に、自分の周囲のぶつ最強硬論を鵜呑みにするところがあったため、軍部内革新派の
ロボットになりやすいと見られた。
満州事変が起こった際、朝鮮軍司令官の職にあった林は、強硬派の
参謀・
神田正種の進言を入れて、中央の指示なしに(天皇の勅裁を受けていない移動は死刑もあり得る重罪である)朝鮮派遣軍を満州に進め「
越境将軍」の異名をとった。
1937(昭和12)年の3月末、林は突然
衆議院の解散・総選挙に踏み切った。昭和12年度の予算はその前日に成立していたため解散の理由がなく、「
食い逃げ解散」と評された。解散前夜、
右翼に強要されたとか、2人の陸軍の予備将校と会い決意したとか、まことしやかな噂が流れた。警察の調べでもそうした事実はなかったのだが、圧力に弱い「ロボット首相」と見られていたことからきたのだろう。一方、林自身は大真面目で、解散・総選挙により新党運動が起こり、既成政党の改革が進むと見ていた。元々林は暫定政権のつもりで、「早く片付けて後は玄人に譲りたい」と、側近に漏らしていた。林が片付けたいと思っていたのは、政治正常化という課題であり、「玄人」とは
近衛文麿を指すとされる。
ところが、選挙になっても近衛は林の期待通りに新党運動に動かず、林自身も政治改革派の無所属候補を積極的に応援しないものだから、選挙後の各党の勢力図はむしろ政党勢力を勢いづかせる結果となった。右翼の一部には、もう1度解散して政党を懲罰せよとの意見もあったが、さすがの軍も見放し、林内閣は選挙後、総辞職に追い込まれた。首相時代に特に何もしなかったことから、名前を取って「
何にもせんじゅうろう内閣」と揶揄された。先代の
広田弘毅内閣から続く政局の混乱に国民は新世代の出現を願い、後継の
近衛文麿内閣に過剰な期待がされた原因ともなった。総理大臣として特筆すべきことはほとんどないが、
ヘレン・ケラー初来日の際に歓迎会を主催している。