日本生命の創業にあたって、
第百三十三国立銀行(現・
滋賀銀行)の頭取をしていた
弘世助三郎が
関西の財界人に呼びかけて設立されたが、最大の問題は、生命保険事業が社会から十分に理解されていなかった当時、世間の信用を得るため日本一の大富豪として財界で無比の声望を持っていた
鴻池財閥の当主に、信用の象徴として社長に就任してもらうことを希望した。しかし鴻池家には家業の堅実を期した厳しい家憲があり、容易に実現しそうにないため、
弘世助三郎は、滋賀県、京都府、大阪府の三知事を動かして、鴻池家の重役の間を奔走し、ついに鴻池家では、副社長の
片岡直温が経営上の一切の責任を負い、鴻池家には決して迷惑をかけないという条件で、
十一代目鴻池善右衛門幸方の社長就任を承諾した。こうして鴻池家の社会的信用を背景に創業し、初代の経営陣は社長に、
十一代目鴻池善右衛門幸方、副社長に
片岡直温、取締役に
弘世助三郎など大阪の有力財界人が参加し、
1889年(明治22年)7月に資本金30万円の有限責任日本生命保険会社として大阪に発足させた。創業後の日本生命は、1891年(明治24年)には株式会社に改組し、保険料表を当時主流だった
イギリスの保険会社のものを使わずに、日本人の死亡統計から作成したものを採用した。さらに東京でも代理店を整備し、社医制度によって経営基盤を強固にし、約款、保険規則を相次いで修正し、また資産運用の範囲を拡張するなど革新を行った。その結果、創業3年後には保有契約500万円を突破し、28年には先発の
明治生命を抜き、相互扶助の精神のもと1898年(明治31年)の第1回大決算において、日本で最初に契約者への利益配当を実施した。32年末には契約高2300万円を突破して、ついに
帝国生命(現
朝日生命)をも追い抜いて、業界の王座についた。このような急速な展開は、鴻池家の絶大な信用と、片岡直温の経営能力、弘世助三郎の調和整理の才能によるところが大きかった。
創業当時から鴻池家は日本生命の筆頭株主であったが、明治36年に
十一代目鴻池善右衛門幸方が社長の地位から退き持株のかなりの部分を手放した。この時期に日本生命創立委員でもあった
山口吉郎兵衛は、鴻池家の手放す株を買い入れ、日本生命が資本的には39年以後
山口財閥に属することになった。