参議以上および三位以上の者を
公卿と称し、参議は
公卿に列しているが、
弁官や
蔵人頭を歴任した参議は実務者として重宝がられた。参議に官位相当を定めた
詔勅や
宣旨などが見当たらないため、相当位は無い。(
従五位上行
式部少輔兼
文章博士菅原道真は、参議に官位相当の規定が無いことは問題であるとし、
元慶6年(
882年)7月1日条「菅家文草・巻第九」で官位相当、考禄等を定めるべきと奏上している。それに対しての回答の有無は伝わらず、定かではない。)そのため、位階に応じて行・守を添えることは無い。(例えば、参議
正二位。参議
従四位下と綴る。)なお、位階によって氏姓名の綴りは、四位であれば氏名の後に姓(例えば、
平清盛朝臣)、三位以上であれば氏-姓-名(例えば、平朝臣清盛)とされた。
明治6年(
1873年)には、
大蔵省の強大な権限が問題となったため、制度改革により正院における参議の地位向上が明確なものとなった。つづく
明治六年の政変においては、西郷隆盛や江藤新平といった有力者が参議を辞任するなど政府の求心力が停止する中、大久保利通は
内務省を創設し自身が内務卿となると共に、参議と各省長官を兼任する制度(参議省卿兼任制)を導入し、省卿を内閣に参加させることにより、政府意思の一体化による政治の引き締めを図った。
大久保の死後、参議の中で頭角を現した
伊藤博文は、
明治13年(
1880年)の太政官改革により(太政官六部制)、参議と省卿を再び分離し、参議を個々の省務から開放させ、国全体の意思決定に専念する職務に転換させ、「内閣」そのものの強化を図る制度を図った。しかし、大臣の地位を保有する
岩倉具視は参議の地位向上を快く思わず、公家出身という身分の高さに由来する天皇との密接な関係を利用し、参議や省卿間の対立を煽ったため、参議と「内閣」の地位向上は思うようには進まなかった。