東海大相模高時代には1年生から
三塁手のレギュラーとして活躍。
夏の甲子園に3年連続で出場し、
1975年の春の甲子園にも出場している。この大会では決勝戦まで勝ち進み、延長の末
高知高校に敗れたものの、準優勝という成績をおさめている。甲子園の各大会では、後にプロ野球でも活躍する
定岡正二、
宇野勝、
土屋正勝、
杉村繁らと名勝負を繰り広げている。地区大会の神奈川県大会では、
川崎球場を満員にするほどの「原フィーバー」を巻き起こした。当時のチームは、原のほかにも、
津末、綱島、佐藤、村中らの好選手を擁し、高校野球ファンに鮮烈な印象を残している。高校通算本塁打は43本。
1976年の
プロ野球ドラフト会議の目玉だったが、原はドラフト直前にプロ入りを拒否し、
東海大学への進学を表明。全球団から指名無しという異例の事態
[通常のドラフトではドラフト拒否の選手にもほぼ9割の確率で指名が行く。]が起き、ドラフト直後に巨人のオーナー
正力亨と監督
長嶋茂雄が「原の獲得に乗り出す」と言明、特に正力が「すでに手は打ってある」と発言したことから
東海大学総長が激怒。記者会見を開き「私の目の黒いうちは原はプロには行かせない、もしプロに行くようなことがあれば原君も死ぬことになる」などと発言し、ちょっとした騒動になった。