加藤高明内閣は
憲政会・
立憲政友会・
革新倶楽部による護憲三派連立内閣である。しかし、組閣から1年余が経過した
1925年(大正14年)
8月2日以後、憲政会単独内閣となる。この憲政会単独内閣を組織した際に、
摂政裕仁親王(後の昭和天皇)から改めて
大命降下を受けて
組閣しているため、この時点で内閣は一旦
総辞職したものと見なして、同日以後を第2次内閣とする説もあるが、現在の
内閣府の公式見解ではこの日以後も第2次内閣として見ず、あくまでも
内閣改造と解して1内閣であるとしている
[だが、後に第2次近衛内閣で松岡洋右外相を更迭したことに関しては、内閣総辞職して第3次近衛内閣として各々1内閣と解しており、明らかに一貫性を欠く。新内閣の組織は、主権者の意思によるものであり、第二次世界大戦前は「大命降下」、第二次世界大戦後は「内閣総辞職」か「総選挙による新しい国会(実質衆議院)構成」の後に行われる。戦前は時折、この内閣総辞職にあたる全閣僚の辞表を取りまとめての提出がされており、しかしその都度受理されずに却下させることも多かった。加藤高明内閣においては支持基盤の瓦解が理由であり、一旦はその後継の検討がなされ、大命が再降下されている事からも、別の新しい第二次内閣とした方が合理的であるが、大命再降下の後に辞表の差し戻しをしており、親任式も交替した3閣僚しか行われていない。教科書や歴史関連の専門書に第二次内閣扱いをしたものは多かったが、あくまで手続き的には内閣改造にあたると考えて問題はない。よく近衛内閣の第二次と第三次の違いと比較されるが、この際は辞表差し戻しが行われておらず、再度の首相拝命扱いとなっているので、事務的には明らかに違いが生じる。]。