1898年、ドイツ植民地政府は
人頭税の徴収を始め、道路建設やその他様々な事業において過酷な強制労働を課した。
1901年、植民地総督に
グスタフ・アドルフ・フォン・ゲッツェンが就任すると、農業を中心とした経済開発に力を入れたが、ヨーロッパ人が多く入植していた北東部では労働力不足に悩まされ、農業生産の拡大ははかどらなかった。
1902年、ゲッツェンは換金作物として
綿花に目をつけ、南部でその共同栽培を行うことを命じ、村々は共同の綿花畑(
プランテーション)を開墾させられた。綿花栽培には村の成人男性が徴用され、年間28日の作業日数が決められていたがしばしば延長され、少ない賃金で働かされた
[『アフリカ現代史II』、79ページ]。この男性徴用は非常に不評で(彼らは自分たちの畑の農作業もしなければならなかった)、多くの村民は単に土地を耕すことを拒否したか、あるいは納付を拒否した。郡長(アキダ)や村長(ジュンベ)は栽培の管理を任され、期間延長された労働を強要するなどの役目を負わされたため人々怨嗟の対象になった。
これらドイツの政策はただ不評なだけではなく、アフリカ人の生活に重大な影響をもたらしもした。地域の社会構造は急速に変化し、男女の社会的役割もその影響を受け変わって行った。男性は家を出て働かされるようになったため、女性は伝統的に男の仕事だったもののいくつかを担わされた。それだけでなく、男性の不在は彼らの村での生活・資産に負担を強い、これらは当時の政府に対する多くの敵意を醸成することとなった。
1905年、この地域で
旱魃(かんばつ)が発生し、それが政府の農業・労働政策への反発と結びつき、7月の反乱の誘因となった。
現地民のドイツ人入植者に対する反感は募っていったが、同時にドイツ人を恐れてもいた。そのような中、ドイツ領東アフリカ東南部、
ルフィジ川南岸のマトゥンビ高地に、蛇神ボケロの使者ホンゴ
[「ボケロ」はタンガニーカ南部、ルフィジ川沿いのキベサを聖地としてムウェラ台地や西はルウェグに広まり、崇められていた現地民俗信仰およびその最高神。ボケロに仕える精霊をホンゴと呼ぶ。北部(ウルグル、ウザラモ、ウングルおよびウジグア)では「コレロ」を神とする民俗信仰が広まっていた]に憑依されたと唱える
霊媒師キンジキティレ・ングワレ(Kinjikitile Ngwale)が現れ、ボケロや憑依により交信した先祖からによるものとする預言を説き、預言により製法を伝えられたとする、ドイツ人の弾丸を液体に変えるという“秘薬”を与えた。そしてボケロの言葉としてドイツ領東アフリカの民はドイツ人を排除するよう命じられたと訴え、密かに各部族の団結と反乱勢力の結集を呼びかけた。この“秘薬”は水(マジ)に
ひまし油と
雑穀の種を混ぜたものだった
。やがてキンジキティレは自らをボケロと称し、彼に仕える者をホンゴと呼び、彼の元にはドイツ領東アフリカ東南部の多くの人々が巡礼に訪れた。キンジキティレは巡礼者にマジを与え、ホンゴをキンジキティレの教えを伝えると同時にマジを配る使者として周辺各地へ派遣した。1905年中頃にはマトゥンビおよびキチ高地とその近隣のほとんどがキンジキティレの信者となっていた。